ベトナム戦争、黒人差別などアメリカが抱えている問題をフォレストを通して制作された映画です。
「ガンプ」(gump) はアラバマ州の方言で「うすのろ、間抜け、愚か者」を意味します。
「フォレスト・ガンプ/一期一会」(1995年日本公開 アメリカ映画)
第67回アカデミー賞作品賞、第52回ゴールデングローブ賞、ドラマ部門作品賞 受賞作品
出演:トム・ハンクス、サリー・フィールド、ロビン・ライト
「フォレスト・ガンプ/一期一会」ストーリー
青空から漂う一本の羽がフォレストの足下に舞い降りるシーンから始まり、バス停のベンチに座るフォレストがバスを待つ人たちに話しかけながらこれまでの自分を回想する…
アラバマ州グリーンボウに住むフォレスト・ガンプは足には脚装具を必要とする軽度の知的障害がある少年でした。
母親に普通の子どもと同じように育てられたフォレスト・ガンプの数奇な運命とアメリカの現代史が重ねられたドラマです。
入学初日のスクールバスに乗ることとなったフォレストは融通が利かないがために戸惑うが運転手と互いに自己紹介しあうことで乗り越える。
バスの中ではただひとり隣の席を空けてくれた女の子ジェニーとそれがきっかけで2人は自然と仲良くなった。
フォレストは小学校でいじめの標的にされるが無我夢中で逃げているうちに走れるようになり、それ以降は脚装具を付けなくても歩けるようになれた。それは自転車でも追いつけないほどの俊足でした。
ある日父親に怒鳴られるジェニーを見たフォレストはジェニーの手を握って畑の中を逃げ回る。
翌日、父親から性的虐待をうけていたことが発覚し父親は警察に捕まり、ジェニーは親戚に引き取られていった。
高校生になってもいじめられていたフォレストは追いかけてくる同級生の車から逃げ切るが、そのままアメフトの試合中のコート内へ誤って進入してしまう。
見ていたコーチにその俊足ぶりを見込まれ1963年アラバマ大学へ入学しフットボールチームに入る。
試合では常に活躍し全米代表選手に選ばれるまでになり、ホワイトハウスでケネディ大統領に面談できるほどのスター選手となる。
卒業後は軍隊に入りベトナム戦争で仲間を救って勲章をもらい除隊後はエビ漁を始めて大成功を収める。
幼い頃から思い続けているジェニーとは再会と別れを繰り返す。
Mちゃんと最後に観た映画が「フォレストガンプ」でした
日本でも洋画ランキング3位になった作品です。
私は海外の映画やドラマは小さいころから両親の影響でよく見ていました。
例えば~クリント・イーストウッドの若いころが見れる「ローハイド」「弁護士ペリー・メイスン」「ララミー牧場」「名犬ラッシー」「怪傑ゾロ 」「ローン・レンジャー」「スーパーマン」「ヒッチコック劇場」などなど~当時は白黒でしたね。
Mちゃんも映画好きでしたが私を誘うときはかたよりのない人気の映画を探してきます。
「フォレスト・ガンプ/一期一会」は私にとっては、すごく長い長い映画で退屈でしたがそのことよりもMちゃんの体調が悪くならないかのほうが心配でした。
アメリカのカルチャーが根本的に理解できないがためにヒューマン・ドラマが苦手だと実感した映画でした。
Mちゃんと私の出会いは…1987年
フリーランスでの仕事が不安定なのでアルバイトとして洋菓子店のデコレーターの仕事をしていました。
事務所が歌舞伎町を通り抜け大久保よりの場所にあり2年ほど働いていました。
私の父は歌舞伎町はとっても恐ろしい場所…若い女の子が踏み入れる場所ではないと刷り込まれていましたが…
私は新宿区の生まれで都電の面影橋駅徒歩5分くらいのところに小学校1年生まで住んでいましたし、親戚も高田馬場に住んでいたので歌舞伎町の悪いイメージはあまりなかったと記憶しています。
事務所から暗くなると同僚たち5~6人で新宿駅に向かう帰り道の楽しみにはホストクラブ「愛」の店頭にあるホストランキング写真を見ることでした。
当時のホストの写真は演歌歌手のような容貌だったと記憶しています。…良くて「中条きよし」みたいなぁ?
さらに暗がりの道を歩き続けると前歯がない60才過ぎのホームレスの「立ちんぼ」が若い男性に声をかけているのを横目で見ながら5分ほど歩くと新宿駅に着きます。
事務所が青山に移転することとなり通勤が大変になるので辞めようと思っていたところアルタの近くのパチンコ店に貼られた募集のポスターを見て応募しました。
仕事内容は新宿歌舞伎町で水商売関連の店を多数持っているオーナーの美術部(サークルかい?)で看板、ポスターなどの制作でした。
美術部は映画館の手書き看板を制作していた自衛隊あがりの責任者、その人が夜間のお絵描き教室で知り合ったMちゃんと変わり者のOさんの女性2人に私が加わり4人が所属していました。
パチンコ店、キャバクラ、テレクラ、喫茶店、居酒屋などのポスターやメニューをのんびりと制作していました。フリーランスや出張の仕事があれば優先と好待遇で仕事をしていました。
Mちゃんと私がいささか抵抗があったのは毎朝「ラジオ体操」をさせられたことぐらいでした。
作業場は4階室内と屋上です。
ラジオからは「You were mine / 久保田利伸」が毎日のようにかかっていました。それが私の秘かな楽しみでした。
1995年 Mちゃんの年賀状に「私は病気になりました」…
私たちは歌舞伎町の店舗の販売促進の仕事は様々な事情で別々に退職することとなり、お互いの職場環境が異なることであまり会わなくなりました。それでもバーゲン、映画、お食事と年に数回は会っていました。
Mちゃんは平日は夜遅くまで残業で、休日は「タイピング スクール」に通っていると聞いていました。
私は仕事帰りにジャズダンス・レッスンを週3~4回通って新しい友達ができて楽しくやっていました。
Mちゃんは気がむいたら連絡くれるだろうとしか思っていませんでした。
新年早々、元旦にMちゃんの自宅に電話をかけました
なんと本人が電話口に出てきました。ド~したあ?
病院も正月休みなので重篤な患者以外は一時退院できるそうで4日からまた入院するという答えが返ってきました。
私は今度の水曜日仕事が休みの日に病院に行くと告げました。
Mちゃんの病名は「リンパ節 ガン」
水曜日昼過ぎにお見舞いに行き本人に入院に至る経緯と病名を聞かされました。
Mちゃんの家庭環境
Mちゃんは脳の障害でボケてしまったお母さんと2人で暮らしていました。
お母さんを他の病院でも診てもらわなくてはいけないよと言ったら、のちに恨みがましい手紙をもらいそれ以降はお母さんの病気に関しては禁句となりました。
Mちゃんのお父さんは高校生のころ病気で亡くなり、弟さんがいるので大学を行くのを諦めて働きながら夜間の大学に6年通ったと聞いています。事情は知りませんが弟さんは大学を卒業後に家を出て行ったと聞いています。
心の支えがあまりない人でした。
Mちゃん!いったい私に何ができるの?
私は仕事が日・水曜日が休みなので隔週の水曜日が行く日とMちゃんとの間で決めました。
欲しいものは事前に自宅に電話をもらい買って病院に行きました。
本人が病気について話さない限り雑談をして2時間ぐらいで帰りました。
私がまくし立てて話をしているのをニコニコして聞いてくれていました。
私はどうでもよかったのですがMちゃんに頼まれて購入したモノのお金は、私に必ず支払っていました。
正直お見舞いの交通費以外Mちゃんのために使ったお金はなかったと記憶しています。
「フォレスト・ガンプ/一期一会」は私たちの最後の映画鑑賞
Mちゃんは新宿区のかなり大きな病院に入院していました。
退院したらやりたいことを私に色々と語っていましたがもうそれはないと感じていました。
ある日、病院の外出許可が出たので映画「フォレストガンプ」を観たいから新宿のアルタで待ち合わせしようと電話がかかってきました。
2週間に1回お見舞いに行くようになって半年以上経過したころだったでしょうか、私たちは久しぶりに病院以外で会いました。
ヨカッター!退院も近いんだね。
私はお給料前で財布に5~6千円しか入っていなかったけれど2人で映画を観ることぐらいできるかと思いながら出かけました。
Mちゃんは映画館の前で「ちょっと待ってて」と言いお菓子でも買ってくるのかなあと思いながら私はアホづらして待っていました。
Mちゃんは2枚のチケットを持っていて「さあ入ろう!」と…私はうかつでした。
帰りは私が病院までタクシーで送ると言うと1人で大丈夫と言って自分で手を上げタクシーに乗り込みました。
これがMちゃんと最後のお別れとなりました。
Mちゃんの弟さんから電話がありました
映画を見た翌々週の水曜日病院に行く前に歯科医院で治療をし、そのまま病院に向かいました。
病院に着くとMちゃんは病室にはいなく受付の人に聞くと外出許可が出ていて5時くらいには帰ってくるでしょうと言われました。
病院の庭で3時間ほど待っていたのですが戻らず…寒くなってきたし暗くなったのでしかたなく自宅に帰りました。
家に到着すると留守電が無言で切られていました。
翌週Mちゃんの弟さんから電話があり、Mちゃんは3日間の昏睡状態の後亡なったことと葬儀の日程を聞かされました。
Mちゃんの病名は「リンパ節 ガン」で肝臓の状態もよくないと本人から聞いていました。今考えと…Mちゃんは緩和ケアの状態だったのかもしれません。
まとめ
Mちゃんのキャラではない、会社あげての最大なお葬式でした。
病院で私のスニーカーを羨ましそうに見ていたので「今度一緒に買いに行こう」と約束したことを思い出し買え置きの新しい白いスニーカーを持って行きました。
葬儀屋さんにはお棺にスニーカーを入れて火葬するとお骨が黒ずみますと言われていると、それを聞いていた弟さんが現れて「それでもいいです、姉がお世話になりました」と私に声をかけてくださいました。
駅までの道のりを歩きながら涙と鼻水でグシャグシャになるほどの大泣きをしていました。
Mちゃんは私にとって同性のソウルメイトだったのではないかと思うのです。
仕事に対するストイックさと「高み」を目指しながら叶わなく満たされない気持ちで生きてきたこと。
私たち2人のストイックとは自己満足であり隙だらけで冷静さに欠け、いたづらに努力してきただけだったのではと?
それ以来…私は必要以上に無理をしない人となりました。
Mちゃんの今世での凝縮された人生はミッション終了となり、36歳で亡くなりました。
あんまり長く苦しまなくて良かったね。
Mちゃんの死後…
Mちゃんのお墓参りで、お母さんは7年後に亡くなったことを知りました。
弟さんひとりでお母さんのお世話はさぞかし大変だったと思います。
1995年(平成7年)洋画ランキング
順位 | タイトル名 | |
1位 | ダイ・ハード3 | 見ました!「ダイ・ハード2」は映画館で寝ました |
2位 | スピード | ヨカッター |
3位 | フォレスト・ガンプ 一期一会 | ム?ムー!思い出の映画でしょう |
1995年(平成7年)ヒット曲
順位 | 曲名 | 歌手名 |
1位 | LOVE LOVE LOVE | ドリームズ・カム・トゥルー |
2位 | WOW WAR TONIGHT~時には起こせよムーヴメント | H Jungle With t |
3位 | HELLO | 福山雅治 |
1995年(平成7年)出来事
阪神・淡路大震災 |
地下鉄サリン事件(13人が死亡、5,510人が重軽傷 |
野茂が米大リーグで活躍 新人王も獲得 |
PHSサービス開始 |
Windows 95発売 |
ゆりかもめ開業 |
イチローが活躍 オリックスがリーグ優勝 |